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「高橋大輔」を好きなだけ語るブログ

私の好きな高橋大輔さん話 その3

好きな高橋くん話をまとめて書いてみよう!と思った時点で、まあまあ長編になるのは予想してたんです。が。

まさか

2回に分けても終わらないとは思わなかった。

でも、よく考えたら当然の成り行きだったのか。
高橋くんの素敵話なんて、書けば書く程出てきてしまう!

そんな訳で「私の好きな高橋大輔さん話」の、そ、その3です。
主に銅メダルをとったバンクーバーオリンピックシーズンよりのエピソード。

人の守り方

フィギュアスケートの試合では、会場での公式練習や直前の6分間練習とかがあるけど、同じリンクで6名のスケーターが一緒に練習をする形で、時々接触などの事故が起きたりする。
高橋選手にも一度あった。
その時の対応の仕方が、自分にとってはめちゃめちゃ痺れるものでした。(だいぶ後で知ったんだけど。)

オリンピックの翌シーズンで、高橋くんは五輪メダリスト+世界王者として迎えたシーズンの話。
グランプリシリーズは2戦とも優勝でグランプリファイナルに進み、そのファイナルの公式練習中に起きた不意の事故。

背中から落ちる強い衝撃だったようで、後になって、あの時はムチウチの状態でスケートが出来る身体ではなかったと周囲の人が漏らしたそうですが、自分は全然知らなかった。
リアルタイムでは衝突のニュースは聞いてて心配してたけど、欠場の情報はなかったし、一応はどちらも無事だったのか、とホッとしてた。
衝突時の体勢的に、より心配が多かった高橋選手も、大丈夫ですと言ってそのまま試合に出場。結果は総合4位。

彼が怪我の状態を話さなかった事で、世界王者が不甲斐ない演技だと言う人もいた。

その後も練習がままならず、二週間後の全日本選手権ショートプログラム4位と出遅れ、世界選手権の切符を懸け危機感が出たフリーは気迫の演技で2位。総合3位で切符を手にした。
それでも高橋くんが自分の怪我の状況を話す事はなかった。

この事故は高橋選手の曲かけ練習中に起きた事故で、公式なルールとして曲掛けしている高橋選手が優先される状況だったけど、高橋くんが記者にそれを問われた時、自分も気をつけなきゃいけなかった、自分の責任、と答えてた。

成績が悪かった事との関係を問われても、練習で事故があってもそれに耐えられる身体づくりが出来てなかった自分が悪いと、やっぱり自分を理由にしてた記憶がある。

自分にばっか厳しくて、それ以外の原因に触れないのは人としてデカイしカッコイイって思う。けど、大した怪我じゃないって事にする事はなかったのになあと、後で知った自分は思った。
無理してファイナルを強行しなければ、その後の全日本まで引きずらずにすんだかも知れないのに、と。でも。

守りたかったんじゃないか。相手の選手を。
怪我を知ってるたくさんの人がそう思っている様だったけど、自分もやっぱりそう思う。
申し訳ない事をしたと、自分の方が気をつけるべき状況だったとわざわざ会見で公言して心から謝っている相手の選手が(こちらも男前だ)、それ以上周囲から責められるのは防ぎたかったんだと思う。

その後も怪我を公表せず試合を続けて重傷の体に無理をかけて、それで不甲斐ない成績だと自分が非難されても、一切言い訳をしなかった
事故は自分自身のせいでもあって、そもそも大した怪我じゃない(←と言うか怪我を公にせず出場し続けた)、成績が悪かったのはそれが実力だからというスタンスを守り通した。

男前め…。

でもその所為で成績不振と非難する人もいる中、事情を知ってる人から堪え兼ねて漏れるように少し情報が出た感じで。

自分がこれを知ったのはだいぶ後になってから。
色んな情報を探すようになってから。

カッコイイ。精神がカッコイイです。

悪い結果の時の姿勢

そして、そのシーズン最後の世界選手権で見せた精神の気高さは、自分が真っ逆さまに沼に落ちた一因なので、一際でっかく覚えてます。

既に長々とプログラム感想(ブエノスアイレスの冬)でも書いてるので端折るけど、スケート靴のトラブルで演技中断があったにもかかわらず、靴トラブルを結果が悪かった理由には絶対しなかった。
演技の中断で大技のジャンプの得点を失った後も、プログラムを投げ出す事なく演技を魅せてくれた。
すごかった。ステップとかなんか迸ってた!

悔しい結果でも清々しい笑顔で観客に応えてた。
結果が悪かった時の、自分ではどうする事も出来ない不運があった時の、高橋くんが見せる爽やかな態度が、本当に本当に美しくて心に響いた。

人のせいにしない(靴トラブル)
人に当たらない(観客への笑顔)
どんな状況でも全力を尽くす(演技へのプライド)

これはソチオリンピック(怪我の回復が間に合わずでの出場)の時もそう。
そのソチ前の全日本の時(怪我治療中での出場)もそう。
どん底の時にそれが出来る。

どんだけなん。
こんな人ちょっとにわかには存在を信じられないくらいです。

美し過ぎる!!!

もちろん、いつでも完全無欠に完璧な人とは思ってない。
上手く行かない練習中に、苛立って物に当たったり八つ当たりしたりした事もあると、他ならぬ本人が話してた。追い詰められる事もある。

でも周囲から期待された試合で結果が出せなかった時の、アスリートとして心底悔しい気持ちだろう時にこれだけ気高くあれるって、本当に芯が美しい人だと思う。

人の役に立ちたい

2011年からの東日本大震災チャリティー演技会の開催の経緯も、人の為に動きたい彼の強い気持ちがよく分かる気がして、自分が好きな高橋くんの一面です。(高橋くん話の第一弾でも、その時の言葉がとても高橋くんの性質を表してる気がしてちょっと書いた)

演技会の時期は世界選手権の直前。
この2011年の世界選手権は、予定では3月末の日本(東京)での開催だった。

高橋選手は、前年の世界王者として日本開催のワールドで連覇を目標にし、出来ればそこで引退と考えていたような大会。
その大会直前に、あの大震災と原発事故が起きた。
東北と日本中が傷ついた。
被災したスケーター達もいた。

関西が拠点の高橋くんは、同じ関西住まいのスケーターOB、宮本賢二さん、本田武史さん、田村岳斗さん達と相談して、「何か自分達に出来る事を」とチャリティで被災地に寄付を送るスケートの演技会を企画。

「復興の街、神戸から〜」という副題の神戸でのチャリティー演技会。
通常の企業やスケート連盟が主催したショーにゲスト出演するのと違って、自分達が主体として行ったそれは、会場選びの交渉からショーの内容などの他、スケーター達自身で決めるべき色々煩雑な事があったはず。

3月21日から開催予定だった東京世界選手権は一旦中止となり、様々な代替案の検討の末、モスクワ代替での延期開催が発表されたのが3月24日
演技会の告知は4月1日、開催は4月9日
日程だけ見ても彼等がすぐに動き出して、慌ただしく準備に奔走したのが分かる。
ちなみに延期になった世界選手権(モスクワ)は4月24日〜5月1日。

演技会には沢山のスケーターが参加したけど、その中では高橋くんだけが代表選手で世界選手権への出場を控えてた。
連覇のかかる試合の2週間前という、大事な調整の時期。

そんな時にチャリティーをする事に関係者から反対意見もあったそうだけど、取材に対して「世界選手権は毎年あるし」「ちょっとでも役に立てれば」と強い目で話してた。何を言われてもやりたいという強い意志を感じた。

とにかく何か力になりたくて、居ても立っても居られない気持ちだったんだなと、後になって詳細が分かれば分かる程思う。

5年続いた演技会のその年々での会見などの言葉からも、力になりたい、寄り添いたい、でも押し付けたくないという、高橋くんの繊細な心情が伝わって来た。(前々回の投稿

前にも貼った神戸チャリティーの素晴らしい情報サイトももう一度リンク

https://kobecharity-arch.com/

偶然街で出会った人があげるエピソード

SNSを見てると、時々、有名人に会った時のエピソードなんかを見る事があるんだけど、そうゆう中にも素敵な話がいっぱいある。

電車で倒れそうになったとき助けてもらったとか、外で具合が悪くなった時に心配して声を掛けられたとか、海外で現地の人に道を教えてたとか、子どもに親切にしてもらったとか、他にもいっぱい。

写真撮影も、高橋くんに他に連れがいて待たせると迷惑になるという場合以外は、本当に気さくに応じてくれるらしい。満面の笑みで嬉しそうに一緒に写った写真を上げている方達を沢山見てきた。

親しみやすさ

同じリンクで一緒に練習してきた年の離れた後輩達も「大ちゃん」と愛称で呼んでずっと憧れ続けるような人。
優しくて親しみやすくて、スケーターとしてああなりたいと思わせる才能があって。
同じリンクじゃないけど、同じマネージメント事務所の後輩選手には、一番好きなのは性格、人として尊敬する、と言われてた。

高橋大輔って人を聖人だと思ってる訳では全然ない。
何せ自分にとって高橋くんの初っ端のお気に入りポイントが、優等生っぽくないアウトサイダー(?)な雰囲気だったくらいで。

自分の知ってる高橋くんの情報は、TV・新聞・雑誌・ネット記事などのインタビューの言葉、ご本人の著書、SNSなどからのご本人や彼の友人やスケート仲間や関係者、直接話をした人達が漏らすエピソードなど。
(それもブログなどで沢山の方が共有して下さる情報のお陰で知れました。本当にありがとうございます🙏)
そうゆう断片的な情報から何となくイメージするだけだけど、そっから受ける高橋くんの印象は、探れば探る程、深くて面白い

若い時からフィギュアスケート界全体のために自然と身を尽くす立派な人だけど、時々羽目を外したり、ちょっとヤサグレてみたり、どこかユルい人間臭さを感じて、なんか味わい深いって思う。

インタビューでは、そこまでややこしく考えんくても〜とか、そこまでヘタレっぷりをぶっちゃけんくても〜とか、突っ込みたくなる事もなかなか多いのも面白い。

どこの迷宮ですかってほどの複雑な思考回路で、周りを見過ぎる繊細さで、気にしぃな面倒臭さで、なのに最終的な行動があらゆる予想の想定外に行く大胆さ(本人は多分気づいてない?)もある。
そうゆうややこしさも含めた高橋くんの全部が、あのこっちの魂を根こそぎ持ってく豊かなパフォーマンス力に繋がってるってガッチリ見えるので、とにかく全部ひっくるめて好きです

でもこっちが勝手に抱いてるイメージとか予想とか、そんなもんはいつでも裏切ってくれていいし、これからも自由でいてくれたらいいなと思う。

高橋くんがこの世に誕生してくれて、本当にありがたい。
スケートを始めてくれて、今の高橋大輔さんで居てくれて、この先もずっとパフォーマーとして生きて行くと決めてくれた事、本当に本当にありがとうございます。

そして、この高橋大輔という人がこの世に存在して、その同じ時代の同じ国に、私の命も生み出されてたというどこにあるのかないのかいるのかいないのか分からない神様か偶然かなんか数々のラクの重なりに、一体どこへどう感謝していいのか分からないけど、とにかくなんかすごくありがとうございます! 幸せです!!!

 

実はソチ以降の言動にこそ、まだまだたくさん、特に最近の数々の格好良い言動にはヤラレっぱなしでもっともっと書きたいんですが。

でもさすがに長くなり過ぎてるので、涙をのんで今回は割愛。
ちょうど高橋くんの過去プロ感想文が引退後辺りまで来てるので、そっちでまたプログラム毎に、どうせ細かく暑苦しく萌え語ってしまうと思うし。

ここ最近発売された雑誌「KISS & CRY」とか「Quadruple Axel」のインタビューとかも、まだ自分は読めてないんだけど、紹介の言葉や色んな方々の感想を読むだけで、素敵な言葉満載の予感がしてるし!早く読みたい。

なんか日経新聞さんからも記事が来てたらしい。てんてこ舞い💃

キスクラさんの紹介記事だけリンクあるので貼ってみます。
「過去はすべて置いてきた」ってなんすか!気になるー。

※キスクラさんは2020年6月現在、2019年5月より前の記事は見られなくなってしまったので、リンクを取り下げます。

私の好きな高橋大輔さん話 その2

高橋くんの誕生日を機会に、自分が倒された高橋君のエピソードを好きなだけ書いてこうと思ったら、序盤のつもりで四千字を超えるという事態に…。

あまりの長文に投稿を分けて、こちらはその第二弾のエントリーです。
(第一弾は主に演技についての惹かれポイント)

こちらは更に長くなったので目次つけます

オフアイスのエピソード

義理堅さ・情の厚さ

8歳という、代表選手になるような中では遅い年齢でフィギュアスケートを始めた高橋くん。
家のすぐ近くにスケートリンクが建って、共働きの両親もここになら通わせられると、近所の人にも送迎してもらったりするような環境で、楽しく遊ぶようにリンクに通い始めたというのが、高橋大輔選手のスケート人生の始まりらしい。
英才教育って訳でもなく、ただ習い事としてふわっと始めた子って所が面白い。

だんだん周りから注目され出して、いろいろ大会に出るようになって。

14歳で長光歌子コーチに出会い、その後岡山から大阪のコーチの元にも通うようになったそうですが、その頃彼の母親がコーチに頼んだ唯一の事が、「もしも義理を欠くような事をしたらスケートを辞めさせてほしい」だったと記事で読んだ。スケートが出来てるのは周りの人達のお陰だからと。

周囲から才能を期待されてより高い指導を受けさせようとなった時に、母親が先生に頼んだ事が、スケートが上手くなるように、じゃなくて、人として真っ直ぐ育ってほしいだった事が、なんか素敵な話だなあと思う。

そして、中学生の高橋くんが先生に言った言葉が、「今まで周りの人にとても助けられてきたけど、どうやったら僕は恩返し出来るんでしょうか」だったのも、ああこの母にしてこの子あり、なんだなあとほんわかする。(引退時の長光コーチからの思い出話)

岡山県スケート連盟会長の小嶋さんからの話も素敵だ。

高橋くんが世界ジュニアの代表になって地元で壮行会をした時、当時の彼が継ぎはぎだらけの靴を隠すように持ってた事。(※ちょっと訂正:小嶋さんの記事では多分壮行会の時だけど正確にはいつの時だったか確かではないようです)
それを見た周りの人達が、世界での戦いに向かう選手がこんな事ではいけないと、カンパして靴をプレゼントした事。
そして高橋くんは世界ジュニアで優勝して帰ってきた。日本人男子初の歴史的快挙。

小嶋さんの話では、一つ誤算だったのが、国体に岡山代表で出てもらうつもりだった所に、あまりにも世界で良い結果を出してステージが変わり、国体への出場が難しくなりそうだった事らしい。
でも高橋くんは地元の為に、プログラムの演技時間の違う国体にも出てくれた。
その年高橋選手と彼と同い年の大上選手の二人で、岡山県フィギュアスケート初優勝を果たしたんだそうな。
これは今のスケート大国岡山県の礎ですよね。
小嶋さんは高橋くんを「本当に律儀な男」と書いている。

この時の記事見つけたのでリンク

個人的な感想だけどちょっと今の友野一希選手も重なる所がある気がする。
世界で結果を出し始めている中で、地元や所属大学の為になる小さな大会にも積極的に参加するところ。
義務感というより、本人が自然にやってる風情で周りに気持ちの負担をかけないところも似てる。
沢山の人に助けられている自覚があって、沢山の人に恩返しがしたい人。
優しい気持ちの循環が見えて何か気持ちがあったかくなる。

律儀という言葉の他に、高橋くんを語る人達から信頼って言葉もよく聞く。

バンクーバーでメダルを取るより前からずっと取材し続けて来た人達が、こぞって彼に「信頼」という言葉を使う。(刈谷さんとか西岡さんとか)
どんどん成績を出して有名になっても、いつまでも変わらない高橋選手の昔からの誠実さ。
取材歴が長くなくても、高橋くんの功績だけじゃなく人柄に感嘆して記事に書く記者が多い。
そうゆうの聞いたり読んだりする度に、そうなんだ!見ててそんな感じするけどやっぱりそうなんだ!って、なんか嬉しくなる。

もともとの優しさ

長光コーチが、高橋くんについてよく話すエピソードが二つある。

岡山から大阪の長光コーチの元へ練習に通ってた中学生時代、帰りの電車に乗る時、練習で疲れきってる高橋くんを見て、コーチが電車を一本見送って座って帰れと勧めて先頭に並ばせたのに、結局後ろから来たおばさん達にどんどん席を譲ってしまった。

後で訳を聞いてみたら、その人達の方が疲れてそうだったと答えたらしい。
練習で疲れてる上に、大阪から岡山までの長距離、在来線だからかなり長時間の帰路になるのに、わざわざ座るために一本電車を遅らせてるのに、人が疲れてそうに見えたという理由で席を譲っちゃうのが、優しい中学生だなあと思う。

もう一つは、海外の試合で遠征した時、街を歩いていて、横断歩道をゆっくり歩いているおばあちゃんが信号の間に渡りきれるか心配で、一人でゆっくりその後ろを歩いていたという話。
話しかけるでもなく、ただ何かあった時のためにと後方を気づかれないように歩いてるって所が、すごく高橋くんらしさを表してる気がして、これもほんわかする。

マナーの徹底

もともと優しい性格だった上に、歌子先生が、国際競技であるフィギュアスケート選手として、海外でもきちんとした行動が取れるよう国際マナーを叩き込んだという事も、その後の彼をつくったと思う。レディーファーストとか。

オフシーズンの合宿の映像なんかでは、みんなで一緒にバーベキューをしながら、率先してゴミを回収して運んでたり、小さな女の子達に飲み物を注いであげたり、常にちょこちょこと動いてる。

歌子先生の荷物はもちろん持ってあげるし、後輩達にも優しくて、重い荷物を持ってる人を見たらやっぱり代わりに持ってあげるらしい。(by 澤田亜紀ちゃん)
でも重くなくてもよく女性の荷物は持ってあげてる気がする。

海外試合の遠征の時も、空港でターンテーブルで出てくるスーツケースを、一緒に行った人達の分を黙々と降ろしてあげて、危うく自分のスーツケースを取り忘れそうになって慌ててたって話を聞いた事がある。
すごく紳士な行動なのにそんなオチがあるのが、らしくて好きな話。

歌子先生の話のリンク

後輩スケーター亜紀ちゃんの話

臨海スポーツセンターの存続活動

臨海スポーツセンター(臨スポ)のリンク存続活動の話も、とても印象深い。
既にブログのどこかで書いてる話だけど、これを機にちょっと詳しく。

臨スポの存続活動はバンクーバー五輪より前の2008年から高橋くんが携わってた活動で、高橋くんも協力したチャリティーショーや署名活動などの効果もあり一度は持ち直したのに、2011年10月、また閉鎖の危機が来る。

そこで大阪の府知事に直談判したのが、当時既にオリンピックメダリスト+世界王者のタイトルを持っていた高橋くん。自分の名前が使える所があるなら使いたいと言っている彼の、正に気持ちの良い名前の使い方だなと思う。

2012年5月に知事に面会して、期限内に改修費用の半分の1億5千万円を募金で集めれば、その半分を大阪府が負担し臨スポを存続させるという言葉を引き出した。

とは言え、1億5千万。
諦めろと言われているに等しかった気もするけど、高橋くんは「諦めたら次はない」と前を向く。
条件を引き出した5月以降、臨スポ利用者や家族や高橋くんはじめ沢山のスケーター達が協力して懸命に募金活動をする中、同年10月に大金を寄付する人が現れる。

新聞で活動を知って詳しく話を聞きたいという方がいて、高橋くんが2時間に渡って説明をしたという。
「子ども達に好きな事を諦めてほしくない。楽しくスケートをして色んな人と出会い、何かを得て社会に出て行ってほしい。」と以前から話していた高橋くん。
その後「子ども達の笑顔を守りたい」という文と共に、匿名希望で合計1億3千万の寄付があった。(ソチ五輪中の新聞記事から)

残りの金額は、高橋選手がリンクからお客さんに頭を下げて募金をお願いしたアイスショーで、あっという間に集まった。そうな。
本当に奇跡のような結果だ✨

スケーターにとって練習するリンクを失う事がどんなに大変な事か、身を以て知ってる高橋くんが、かつて2年間練習拠点にしていたスケートリンクの存続活動に、真摯に取り組んだ結果。
高橋くんだけの力ではないけど、彼がいなければやっぱりあり得なかった。
本当に果たした役割は大きかった。

でも本人は自分のやった事については何にも言わない。
リンクが残って本当に嬉しい、皆さんご協力ありがとうございましたって、それだけ。
カッコイイなあ。😭

力を結集させる何かを持っている人だと思う。自然と周りに人を集める人なんだなって、話を知った時しみじみ感動した。

松原記者の臨スポの記事

臨スポ支援の会のHP

モロゾフコーチとの訣別

2008年、ニコライ・モロゾフコーチの師事を離れた時の彼も、潔くて格好良かった。

周囲の話を繋ぎ合わせるとどう見てもモロさんの身勝手さが原因だと思うんだけど、高橋くんは一切モロさんを責めるような言葉は口にしなかった。
ただキッパリと師弟関係の解消を決めただけ。

モロさんは2005年に高橋くんのコーチとして加わり、シニアで伸び悩んでいた高橋くんの才能を飛躍的に伸ばした人だ。

コーチ3年目のそのシーズンは、モロさん振付のヒップホップ白鳥の湖という斬新なプログラムを引っさげて、四大陸選手権では4回転ジャンプも好調で当時の世界最高得点を獲得して優勝。
世界ランクも1位でノリに乗ってた。この頃のモロゾフへの高橋くんの信頼は絶対だったと思う。
ただ、その後の世界選手権は調子が悪く、期待された表彰台を逃した事で落ち込んでいた矢先、モロさんが取った軽率な(※私の感想)行動が高橋くんを深く傷つけた。その結果の別離。

当時の自分は今程ファンだった訳じゃないけど、もっと彼は怒っても良いのにと思ってた。
でも高橋くんは、ただモロさんを悪く言わないってだけじゃなく、それまで教えてくれた事への感謝の言葉を繰り返してた。
そして、自分の心が弱いからこのまま師弟関係を続けられないだけ、と自分を原因にして語ってた。なんて人だ。

しかもこれ、我慢して無理に言ったんじゃなく、本気でそう思ってたんだよね。
って事がハッキリしたのがその約3年後の荒川静香さんとの対談(フレンズプラス)。

対談中、英語が自由に話せるようになったら誰と一番しゃべりたい?って話題に、高橋くんが屈託なく「ニコライ」って答えた時にビックリした。荒川さんも驚いてたけど。
なんで?と聞かれて、プログラムに対してどんな風に考えたりしてるのかもっと詳しく聞けたらよかった、みたいな事を答えてたと思う。

けど、そのモロゾフさん、訣別の原因をつくっただけじゃなく、その後もなんのかんのと高橋くん陣営に刺のある言動をしてた人だと思うんだけど…。そんな事があったのにその言葉なのか?ちょっとわだかまりなさ過ぎないか?ってゆうかもしや相当お人好し?…と当時は思ったりしたりしなかったりもしたような(笑)。

でもそんな彼だったからこそ、その後モロゾフからの熱烈アプローチでの電撃の再タッグになったんだな。コーチとしてではなく、チームのアドバイザーに迎えるという形だったけど。

再タッグ宣言の会見ではモロゾフ氏がもう蕩けそうに嬉しそうで幸せそうで、その後もソチまで(ソチ後も)ずっと本当に心から高橋くんを大事にしてるのが折に触れてよく分かった。
お人好しとも思える程の、高橋くんの人を大切にする性質が、その後の幸せな関係を生んでるんだなあ。そうゆう人なんだなあ。やっぱりカッコイイ。

自分だったら、高橋くんのような態度を取るのは難しいだろうな。再結成とか絶対無理かも。
でも高橋くんのその姿勢が周りに幸せを運んだんだって感じる。すごいなあ。尊敬します。すごい人だ。

怪我後の復帰シーズンの4回転ジャンプの挑戦

右膝の前十字靭帯断裂および半月板損傷という大怪我から、たった1年で復帰し、そのシーズンのオリンピックで日本男子初のオリンピックメダルを穫った事はよく知られてますが、この大怪我がモロさんと別れたそのすぐ後。
かなりメンタルが落ちてたとご本人が述懐する時期の怪我で、そこから手術・リハビリを経ての復帰。

自分のしびれどころは、このシーズンの四回転ジャンプへの挑戦、です。
膝の前十字を怪我したら、普通は跳んだり捻ったり出来るだけしないようにという医師から指示が出るそうですが、フィギュアスケートはめちゃめちゃ跳ぶしめちゃめちゃ捻るし、その最たるもんが四回転ジャンプですよね。多分。
それをまだボルトが足に入ってる状態で、何度でも挑戦してた。

当時のルールでは4回転は失敗するとめちゃめちゃ減点されるのに、綺麗に飛んでもすごく加点される訳ではない。
ハイリスクローリターンの4回転と言われていた時代。
怪我明けの万全でない足で挑戦して、無駄に点数を引かれるのは戦略が悪いという外野(モロさん)の意見もあった。

実際、手術後リハビリを経てリンク練習を再開した頃は、シングルジャンプから練習を始めて、今までどうやって跳んでたのか分からないって程に跳べなくなっていたらしい。
跳んで降りるという動作に大切な、膝のバネを失ってる中で一からのジャンプの立て直し。
シーズン中、根気強く挑戦していたけど、一度も成功してなかった。
当時の採点ルールからいけば、四回転を回避して丁寧にまとめた方がきっともっと点数は出た。

それでも高橋くんが跳ぼうとしたのは、それが彼の理想だったから。
4回転も含めすべてがまとまった演技を見せたいと言ってた。
今出来てるかどうかより、そうありたいから。
怪我の前には跳べていたジャンプだから、取り戻したいって気持ちもあったんだろう。

回避した方が確実にメダルが狙えるという声はかなりあったようだけど、高橋くんはずっと「4回転に挑戦します」と言い続けて実行した。

結果的にそのシーズンには4回転は戻らなかったけど、あの時攻め続けた姿勢があったから、その後また跳べるようになっていったんだろうし、損得の計算じゃなく、ただひたむきに自分の理想を追求する姿勢は、演技への情熱になって伝わって来た。

理想を追う情熱=高橋大輔のスケート、でもある。私にとって。
好き。たまらん。カッコイイ。
あの姿見てて心底 応援したいと強く思った。

 

さて

前回に引き続き書いて来た「私の好きな高橋大輔さん話」。
今回も既にドエライ長文になってますが、あの、まだ、終わらないんです。
まだってゆうかまだまだ…。

長い文をここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
そして、驚愕のお知らせかも知れませんが、

そ、その3に続きます…!!!(マジでか)

その1は高橋くんの演技+人間性の魅力
その3は続・好きエピソード